私がこれからしなければならないことは山ほどあります。基本的には、アメリカ中心の世界観、英語中心の世界観と戦うことです。そして、そのような世界観の下で犠牲になっていることをひとつひとつ白日の下にさらすことです。そのひとつは、医学関係、看護関係の日本語にメスを入れることです。英語中心の考え方で、日本語そのものも英語を規範にした文章にしなければならないと思っているのでしょうか。意味がわかりにくいだけでなく、日本語を見下されているようで、とてもいやな思いをします。
外国には、アルツハイマー患者が書いた手記や癌末期患者の家族のドキュメンタリーなどに優れたものがありますが、翻訳されたものはとても読みづらく、途中で投げ出してしまう人がたくさんいます。
特定の本から引用したものではありませんが、次のような文章があちこちにみられます。
「妻の病気の第二期は、とくに次のことで特徴づけられている。すなわち彼女の手が足よりも早く駄目になったということである」
とてもじゃないけれども、介護に疲れた頭で読める文ではありません。なぜ「妻の病気が第二期に入ると、足よりも先に手が使えなくなるのがはっきりとわかった」と書いてあげないのでしょう。
犠牲になるのはいつも弱者なのです。英語英語と騒いで日本語をおろそかにすればどういうことになるか。本当にそれを必要としている人に、肝心な情報が届かないのです。
けっしてまともな日本語が書ける翻訳者がいないわけではありません。ところが、なぜか名前やコネ、経験などが優先され、新人にはなかなか仕事が回らないようになっています。私がこれからしようと思っていることのひとつは、優れた新人翻訳者に仕事が回るようなルートをつくってやることです。
-「学校英語よ、さようなら」辻谷真一郎著(文芸社)より引用