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ソレイアの講師である辻谷真一郎先生の「雑記帳」から、翻訳や多言語学習のことなどさまざまな記事をご紹介していきます。辻谷先生ならではのお話がお読みいただけます。不定期で更新いたします。
●目に見えないところにこそ勝利の鍵がある(2006.4.13)
●講座の目的を見失わないために(その一、講座の実現)(2006.4.13)
●講座の目的を見失わないために(その二、技術の共有)(2006.4.18)
●もしもガリレオが翻訳家だったら(2006.5.17)
●翻訳者たちの遠い夜明け(2006.5.26)
●原文が透けて見えるとはどういうことか(2006.5.30)
●失言者だけを責めるのか(2006.6.5)
●情報量理論の科学と技術(2006.7.7)
●忘却とは、覚え切ることなり。物の名は、、、(2006.7.7)
●「別件逮捕」の学校英語、別件は不起訴(2006.8.12)NEW!
翻 訳講座はむずかしい。人は知識を求めてやって来る。そんな人たちに、知識ではなくモノの考え方を伝えなければ、講座の目的は果たせない。それには、スポー ツにたとえるのがいちばんだ。アテネオリンピック体操団体の金メダルはまたとない材料だった。小学生の頃から体操を習っていた者たちが快挙を成し遂げた。 コーチは年端もいかない子どもたちに派手な技を教えたわけでない。手足をピンと伸ばすこと。いわばその体操の基本と言うべきものを徹底的に練習させた。土 壇場で勝利を呼び込んだのは、その地道な努力だった。翻訳も同じだということを、少しはわかってもらえただろうか。
今年また、スポーツについて話す機会が巡ってきた。3月31日 の講座で団体パシュートの話をしようか、荒川静香の話をしようか、ずっと迷った。いささか騒がれすぎたということもあって、荒川静香の話はやめることにし た。それでも、心につかえていたことがある。翻訳を志す人たちにこそ、漫然と演技を見るのではなく、得点の内訳を見てほしかった。もちろん、運もある。ラ イバルたちのミスもある。だが、純然たるスケーティング技術は荒川静香の点数がいちばん高かった。これだけはぜひ知っておいてほしい。運もまた実力のうち と言うのは、そういう基本の裏づけがあってこその話なのだ。
やはり、このことは絶対話しておくべきだった。そう思いながら、品川駅で帰りの新幹線を待っていると、そこにいたのは何と、荒川静香その人であった。オリンピックのメダリストまで1メートル以内の距離に迫ったのは、ロサンゼルス、ベルリン両オリンピック棒高跳び銀メダルの西田修平、メキシコオリンピックマラソン銀メダルの君原健二、同銅メダルのマイク・ライアン、モントリオール20キロ競歩金メダルのバウチスタ、バルセロナ50キロ競歩銀メダルのカルロス・メルセナリオに次いで、6人目。
ほとんどの人が気づかずに通り過ぎていく。それもまた、見事な技と言うほかない。いったん陸に上がれば、氷の上の世界のものは何ひとつひきずっていない。翻訳もこうでありたい。
果たして、その人は名古屋で降りた。翌4月1日は当地のレインボーアリーナでフィギュアスケートフェスティバルがある日だった。
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ここでちょっときわどいことを書いてみよう。講座誕生の秘話でもあり、裏話でもある。もともと、ぼくは大阪の人間だから、大阪東京間を往復すれば、新幹線で3万 はかかる。それまでにも、ぼくを呼んで翻訳講座を開こうとした翻訳会社があったけれども、採算の問題で立ち消えになった。それを、単なる受講生の集団にす ぎないソレイアが実現した。それはそれで凄いことだと思う。発想も凄いし、それを実行に移した決断力も凄い。翻訳もこれくらいできれば申し分ないのだが、 天は二物を与えないらしい。
い くら金に糸目はつけないと言ったって、これだけの交通費の上に講師料を払うのは辛かろう。そこで、ソレイアが目をつけたのが一般講座である。一般講座の受 講料については講師との取り分を決め、運営費に充てれば多少なりとも経費が浮く計算になる。一般講座を開くのにはそういう切実な事情がある。一般講座がな ければ絶対やっていけないというものではないが、運営上重要な収入源であることは否めない。
ただし、ソレイアはけっして利益を上げてはいない。自分たちの受講料が多少安くなるだけで、会計上はだれも得をしていない。そこが、講師料を払った上になおも利益を上げる講座とは決定的に異なる点である。
だからこそ、いわゆる営利企業にできなかったことを実現することができたわけだ。目論みは成功し、講座は軌道に乗った。5回、10回と回を重ねても、ソレイアから10名、一般から10名ほどの参加者がある。その意味でも安定した講座になった。その安定性こそが実はいちばんの命取りになる。講座をつぶしはしないが、講座の目的を骨抜きにしてしまう。
ソ レイアの講座が実現したあと、翻訳会社でも一社、講座を実現させた会社がある。サングローバル社である。それで、その会社が利益を上げたかというと、そん なことは絶対にない。会長の櫻井恵美子さんは「何としても情報量理論を広めなければ」と言ってくれた。もちろん、理念に賛同したというだけの理由ではな い。経営者が理念だけで動くはずがない。講座は吐き出しでも、そのあとに期待できる経済効果がある。年間5万枚を受注するとして、チェックにかかる人件費を1枚100円節約できれば、年間500万円の経済効果を生む。櫻井さんの血圧も20mmHg、血糖値も30は下がるはずだ。翻訳業界のためにも櫻井さんには健康でいてもらわなければならない。
日 本の翻訳業界にいちばん欠けているのは、技術の共有である。めいめいが自分勝手なやり方で翻訳している。英語の顔さえ立てれば、日本語としての体裁などお かまいなしの翻訳者があまりにも多い。これではチェックする者が大変だ。力及ばず不十分なまま納品していては、いつまでたってもクライアントからの絶対的 な信頼を勝ち取ることができない。解釈はともかく、もう少しまともな日本語にしてくれれば、どれだけ仕事が進むだろうか。翻訳会社が日々悶々としているの に、翻訳者だけが涼しい顔をしている。医薬が儲かるとみれば、自社に技術の蓄積もないくせに節操なく進出する会社とちがって、サングローバルは医薬への進 出に踏み切れないでいる。チェックから納品までの態勢を整える算段がつかないからだ。
そう、講座の目的とはまさにそのことにほかならない。技術の共有を実現することである。そこから生まれる経済効果は計り知れない。
世 の中でいちばん大胆な業種は何かと問われたら、ぼくは躊躇することなく翻訳業だと答える。翻訳会社はクライアントからの発注を受けて、ほとんどは下請けに 出す。そこまではいい。でも、これがもし製造業だとしたら、その下請け会社の工場を見学し、生産ラインを自分の目で確かめておかないかぎり不安でしょうが ない。
そのために現場に足を運んだ翻訳会社の社長がいったい何人いるだろうか。ぼくなら、できあがった製品からおよその見当はつくけれども、現場を見ないことにはわからないことが山ほどある。
ど んな生産ラインを備えているかもわからない複数の下請けに外注し、納品された中間製品に俄か仕立ての修正を加えただけで、最終消費者に納品する。いったい 世の中にこれほどの暴挙があるだろうか。これまで何度も、いろんなところから翻訳会社をやらないんですかと訊かれたが、この問題が解決しないかぎり、ぼく が翻訳会社を興すことはない。
ここまで書けば、サングローバルの講座が何を目指したものであるかがわかるはずだ。下請け工場の生産ラインを見学して、不良品を生み出す原因を見つけ出し、生産ラインの改造を迫ることが最大の目的である。
購 入者の立場から生産ラインを見学しに来てくれて、不良品を生み出す原因を指摘してくれるのだから、工場にとってはとてもありがたいことであるはずだ。逆 に、工場への立ち入りを拒んだり、改造をしぶったりすれば、もうそれで取引はしてもらえない。このまま不良品を作り続けても、そんな商品を買ってくれる会 社が現れるとは思えない。資金面の問題はあるが、生産ラインを全面的に改造する以外に生き延びる道はない。
製造業の理屈からすれば、櫻井さんの筋書き通りに進まない道理はない。ところが、そこに待ち構えていたのは、古い体質から抜け切れない抵抗勢力の存在だった。ばくはまさに、外務省の改革に取り組んだ田中真紀子さん、大阪市の改革に着手した大平光代さんの立場に立たされた。
大きく見て問題は二点ある。ひとつは飲食店の原理、もうひとつは素人経営者の存在である。
一 流レストランと、漫然と商売を続けている食堂とでは味の差は歴然であるけれども、味がよくないものが不良品だというわけではない。「あそこの店はまずい」 と言われることはあっても、生煮え生焼けや黒こげのものを出したり、食中毒を出したりしないかぎり、欠陥商品にはなりえない。それほどおいしくなくても安 ければ客は来る。
食 中毒は論外として、生煮えや黒こげはだれにでも簡単に判断がつく。人によって見解が分かれることはあまりない。ところが、翻訳ではいったい何が生煮え生焼 けや黒こげに相当するのかがわかりにくい。ある人には生焼けでも、別の人には素材の旨みを最大限に生かしていると思えることがある。ほとんどの翻訳者は、 自分自身の出すものがそれほどおいしいものだとは思っていないにしても、生煮えや黒こげだとはゆめ思っていない。不良品かどうかの見分けが容易でなく、当 の本人にもその自覚がないのであるから、生産ラインを改造する必要がありますねと言われても、そう簡単には「はい、そうですか」と言えるはずがない。
ど の翻訳者の生産ラインも、それぞれ独自のやり方で築き上げてきたものである。もちろん、改造してもっといいものにしたいと思っている。ただし、それは客の 立場から見たものではなく、専ら作業する自分の立場から見たものである。スピードを上げたり、自分にとってむずかしい構文や単語を処理しやすいように工夫 したりすることは、あくまで翻訳者の都合であって、客の都合ではない。客の立場からすれば、翻訳者がそれほど気にしていないところに問題があることが多 い。翻訳者は原文と格闘してねじ伏せた時点で作業が終わったと思っているかもしれないが、本当の作業はそこから始まることを忘れないでほしい。料理だっ て、ひとつひとつがいくらおいしくても、盛り付けもあれば、全体のバランスもある。コース料理なら、流れというものがある。
生 産ラインを改造しましょうという話をもちかけたとき、工場側と購入者との間にはこのようなズレがある。翻訳者は自分自身の作業効率の改善に必死になってお り、客の立場から改善を求める翻訳会社の話など上の空である。生産ラインを改造するということは、いったん生産効率を落とすことでもある。
もちろん、それで仕事を干されてしまうのであれば、翻訳者だって少しは客の声に耳を傾けるはずだ。そうはならないのには、素人経営者の存在がある。さらに、それ以上に困るのが素人客の存在である。 (つづく)
ぼくが『翻訳の原点』を書いたとき、実はその前に没になった原稿がある。『もしもアインシュタインが翻訳家だったら』という書名を予定していた。没になったのは、出版社のNOVAがどちらかといえば、学習者向けの教材を中心に出版している会社で、これまでの翻訳理論を見直すことを中心にした内容には積極的になれなかったからだ。今でも、翻訳会社の方々のなかに、この「幻の迷著」をぜひ読みたいと言ってくださる方がいる。
そのときは、翻訳業界は物理学より100年遅れているという思いがあった。
あれ以来、理論の点では、かなり追いついてきたのではないかと思う。ところが、製造業との比較で考えると、公害対策などの点では50年遅れているという思いを強くしている。簡単に言うと、こういうことだ。翻訳者は文化や科学知識を伝達する重要な担い手であるなどと粋がっているが、自分の行為が環境破壊につながるおそれがあることなどまるで考えていない。ちょうど50年前の製造業と同じである。
翻訳者も確かに社会のためになることをしている。しかし、社会のためになることをしているのだから、何をしても許されるわけではない。外国の文化を伝えるために、本来の日本語にはなかった表現を使わなければならないことがある。その作業が適切であれば、日本語を豊かにすることにつながるが、一歩間違えれば日本語を粗悪なものにする可能性を孕んでいる。いつ日本語環境の汚染に加担することになるやもしれない作業にかかわっているのだという自覚が、翻訳者には必要である。そういうものがない人があまりにも多い。
かくなるうえは、翻訳にも「環境ビジネス」が必要ではないかと考えていた矢先である。
oftenが特定の頻度を表すものであるから、必ず「しばしば」と訳さなければならないとか、「採集する及び分析する」のような「及び」の使い方が日本語として何ら問題がないなどという戯言をはじめ、荒唐無稽な理論を並べ立てる集団に遭遇した。これではまるで、地球が不動のもので、その周りを太陽や星が回っているとする天動説そのままである。しかも、そのうえに強大な権威をもつ法王のような存在がいて、いっさいの意見、反論を受けつけないというのだから、まさに中世の法王庁と変わるところがない。今日もまた一人、翻訳者が異端審問で裁かれ、神に奉仕して自らを向上させようとする熱意も意欲もない翻訳者という烙印を押された。
法王庁には、科学とはまったく無縁の「法王庁の十箇条の掟」がある。仮説を立て、何度も実験を繰り返して到達した結論と言うにはほど遠い。この十箇条に従って翻訳しようとしてもうまくいかないことが必ずある。そんなとき、もう一度理論を疑ってかかるのが科学者の取るべき姿勢であるのに、そういう姿勢がまるでみられない。
私はどんな指摘を受けても、必ずもう一度自分の理論を検証する。絶対にごまかしたりはしない。現時点で理論だけで解決できない点は率直に認めて、次の段階の研究に入る。
とりあえず、oftenについてだけ言及しておくと、法王は「しばしば」は医学の慣用であり、頻度にして80〜90%を意味するものであるから、それ以外の訳では医師が判断に困るので、絶対に「しばしば」と訳してもらわないと困ると主張しているが、英語のoftenは時間の経過を伴うような事柄について全体に占める割合を示すものであって、頻度だけに限定したものでもなければ、「しばしば」のように、あることが起きてから次に起きるまでの期間の短さを表現するだけのものではない。「しばしば手術の適応となる」とすれば、「一度手術をしても、短い間隔で何度も手術しなければならなくなる」という意味にしか解釈できないというのが、日本語の母語話者のいちばん正常な感覚である。
いかなる専門分野の慣用であっても、憲法の下に法律があるように、日本語の範囲を逸脱してまで、それぞれの分野で勝手な使い方をすることはできないはずである。
それでもなお、「しばしば」が80〜90%を表すというのが、医師の間に共通した認識であると主張するのであれば、これほど一般の人たちをバカにした物言いがあるだろうか。いくら医師を対象とした専門書であっても、一般の人だって家族が病気になれば手にすることはあるだろう。そのときに、医師の理解は「しばしば」が80〜90%であると主張して譲らないのであれば、それはそれで百歩譲るとしても、「この本には日本語ではなく、西ハワイ語でしかない文で書かれている箇所があり、一般の人には誤った理解を植えつけるおそれがありますので、一般の人は十分に注意したうえ、ご購入、ご高覧くださいませ」などというような但し書きをつけるべきである。
さらにまた、「しばしば」が医師の間にだけ通用する慣用であるとすれば、なぜ法王が監修した家庭版の医学書にも「しばしば、細胞は生命の最小単位とみなされるが」という記述があるのであろうか。oftenには傾向を表す用法があり、この場合は明らかに「細胞は生命の最小単位と思われがちであるが」ということである。この部分は明らかにoftenの意味を知らないことによる誤訳になっている。
『もしもアインシュタインが翻訳家だったら』を書く前に、『もしもガリレオが翻訳家だったら』を書かなければならないことになるかもしれない。
宗教裁判で異端の烙印を押されたとき、ぼくは何と言えばいいのだろうか。
法王に尻尾を振る翻訳者 「それでも時給はもらっている」
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翻訳者はいつも弱い存在である。
請け負う仕事の単価をどうやって決めるか、むずかしい問題がある。ぼくなんかは、やりたくない仕事があると、(正確にはほかにやりたいことがあって、できれば今回は見送りたい仕事があると)多少高めの単価を提示する。つい最近もクロアチア語の仕事で5000円の単価を提示したら、絶対に来ないだろうと思っていた仕事が来た。来たかぎりはどんなに自分の都合が悪かろうと請けざるをえない。それでこそ、翻訳者と翻訳会社、クライアントとが対等の関係にあると言える。ぼく自身は幸いにも、ポーランド語のおこぼれでクロアチア語もものにしたが、もしも旧ユーゴスラビアの動乱のなか、命がけで現地に行ってクロアチア語をものにした人がいたとしたら、単価5000円が高いなどとは口が裂けても言えないはずである。
その単価が発注者側の都合によって一方的に決められるとすれば、本当なら労働基本法上、独占禁止法上、大きな問題であるはずだ。翻訳者はそういうことにまったく無頓着である。
ついこの間、少しばかり大きな問題があったので、弁護士の先生に相談する機会があった。翻訳会社が翻訳者を募集したまではいいのだが、翻訳作業に関する指示書があまりにも高圧的なもので、翻訳者に心理的圧迫を加えるものとなっている。その後試訳を提出して最終的に単価を決定するという。
ちょっと待て。「××は確認しましたか」、「××はありませんか」、「誤訳は最大50%の減額になります」、「半角、全角のミスは100円のペナルティーにします」など、考えうるかぎりの心理的圧迫を加えて、そのあとで単価を決定するなんて、明らかに翻訳者に心理的圧力をかけ、それによって自分たちの有利なように事を運ぼうとしていることになりはしないか。違法ではないか。ぼくは六法全書をひもときながら、その違法性を具体的に指摘する作業に取り組んだ。
それがどうだろう。弁護士の先生が指示書を一目みるなり「違法です」の一言。ぼくが費やした時間はいったい何だったのか。結果的にはぼくの考えはまちがいではなかった。その意味では弁護士の先生に見解の正しさを評価してもらったことになる。ぼくの感覚はまちがってはいなかった。それにしても、専門家が一目でわかることに、あれだけの時間を費やしたなんてと思うと、何とも複雑な気持ちである。
でも、そのあとがまた「人生は辛い」、「現実はそんなに甘くない」ことを思い知らされるものとなった。法的には100%こちらが正しい。ただ、実効力のある方法として相手側の翻訳会社に指示書の撤回を求めるには、公正取引委員会が実際に動かなければならない。公正取引委員会はそう簡単には動かない。それこそ、この翻訳会社から仕事を請けている翻訳者が少なくとも10人くらいが訴えを起こさないかぎり、公正取引委員会が重い腰を上げることはないという。
だが、道は断たれたわけではない。もしも公正取引委員会が動けば、そのホームページにかくかくしかじかの翻訳会社のかくかくしかじかの指示書は違法であるから、修正変更を求めたという趣旨の文が掲載されることになる。
翻訳の評価をめぐる言い回しには非科学的、情緒的なものが多い。「直訳」、「意訳」など言語道断。そもそも「直訳」そのものが「意訳」(traduction libre)であって、未だに直訳か意訳かなどと言っている人たちの言う「直訳」では、「直訳」は「字面訳」(traduction litterale)となるはずだ。「直訳」という概念そのものが「意訳」であるのに(traduction directeとは言わない)、その「意訳」した「直訳」という概念を用いて、「直訳」しなさいなどと言われても、まず自ら襟を正しなさいと応じるほかない。
だから、直訳か意訳かという議論は20世紀で終わっている。
前世紀の亡霊はことごとく死に絶えたと思っていたら、「原文が透けて見える」という何ともザルのような評価基準が未だに残っていた。
ドイツ語をものにした者がオランダ語を読むと、ある時突然、砂漠で蜃気楼に遭遇したようにドイツ語の文がくっきりと浮かび上がることがある。オランダ語で書かれた内容がよく理解できるようになった瞬間である。構文が似ているからではない。内容がはっきりと理解できたからである。
いくらドイツ語とオランダ語がよく似ているからといって、単にひとつひとつの単語を置き換えただけでは、上のような現象は起こらない。見方を変えれば、ある言語が完璧にわかる者が別の言語で書かれた情報を解析できた瞬間、常に同じ現象が起こっていることになる。本当によくできた翻訳を原文と見比べると、「まさしくそっくりそのまま」だと思うけれども、構文そのものはまるでちがうことがある。
そういう意味で訳文が原文とそっくりそのままであるかどうかは、だれにでも判断できることではない。訳文から原文が浮かび上がるかどうかは、その人の言語能力によるところが大きい。それなりの言語能力のある者がすぐれた翻訳を読めば、原文がくっきりと浮かび上がるはずである。
だから、しかるべき人が見て「原文がくっきりと浮かび上がる」かどうかは、十分に評価基準になりうるものである。では、「原文がくっきりと浮かび上がる」ことと、「原文が透けて見える」こととは果たして同じであるか。「原文が透けて見える」という表現自体、厳密な吟味を経ずに使ったものであるので、実際にこの表現を使う人の意図と本来の意味との間にはズレがあることは否めないが、「原文が透けて見える」という人は実際に原文を再現できるだろうか。おそらくは「何となく、そんな感じがするんです」ほどの答えが返ってくるだけで、再現することなどできないであろう。
再現できないものを「透けて見える」とはよく言ったもので、本当は透けて見えてなんかいないのではないか。ドイツ語の翻訳で「原文が透けて見えない訳ですね」と言われたことがあるが、その人のドイツ語の知識では、もともとのドイツ語がどういう構文で書かれているかがまったく想像できなかったというだけのことである。もしも「透けて見える」ものがあるとすれば、それは原文の形式であって、原文そのものではない。訳がまちがっていないかぎり、原文そのものはすでに見えている。
そこで、「原文が透けて見える」を「原文の形式が透けて見える」に言い換えて考えてみよう。原文の形式が透けてみえるかどうかは、訳文の優劣とはまったく無縁のものである。同じ情報を伝達するのに用いられる形式が言語間で異なるのはもちろんであるが、基本的には異なっていても、情報によってはほぼ同じ形式で間にあうことがある。ほぼ同じ形式で間にあうときには「原文が透けて見える」と感じ、形式が大きく異なるときには「原文が透けて見えない」と感じるだけのことである。だから、「原文が透けて見える」かどうかは、同じ情報を伝達するのに用いられる形式が二言語間でどれだけ異なるかを判断する基準にはなっても、翻訳がすぐれているかどうかを判断する基準にはなりえない。
この「原文が透けて見える」ことがよくないことであるような誤解が翻訳者の間に広まったために、非常におなしか現象がみられるようになってしまった。軒並み原文の形式をはずそうとする翻訳者がいる。「安全性を高める」でいいものを「事故を防止する」として、「原文が透けて見えない」いい訳をしたつもりになっている。
文芸作品では「原文が透けて見えない」のがいい訳で、技術文献では「原文が透けて見える」のがいい訳であるというのも、まったくの邪説である。同じ情報を伝達するのにほぼ同じ形式でいいか、形式を大きく変えないといけないかは、一文ごとに判断しなければならない問題である。結果的に技術文献では相対的に同じ形式で間にあうことが多いということは言えるだろうが、時には大きく形式を変えてしまわなければ、技術そのものを誤って伝える事態になりかねない。
翻訳者が「原文が透けて見える」ことがよくないことであると誤解した日には、上に書いたような困った事態が生じるが、医学者が(科学論文では)「原文が透けて見える」ことがむしろよいことであると誤解した日には、目も当てられない悲惨な事態に至る。
どの文にも原文の形式が透けて見えるようにするためには、原文が伝えようとする情報とは関係なく、原文と同じ形式を訳文にもちこまなければならないことになる。そんなことになれば、至るところ言化けの山になる。
そうなれば、日本語の思考が停止することは必至である。母語の思考を奪われれば、その人の人格は死ぬ。現代医学はついにロベクトミーに拠らずとも、非観血的に生きた人間から人格を抹消する技術を手にしたと言える。
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ある学校の教師が「赤ちゃんの頭蓋骨は骨がつながっていないから、指で押すと簡単に殺せるよ」と教えたことが問題になった。気分が悪くなった生徒もいたという。
失言した本人は「自分では、こうやったら死んでしまうよ、と言ったつもりだった」と弁明している。
この教師を処分するのはたやすいが、いったいそれだけですむ問題なのだろうか。
ぼくは『学校英語よ、さようなら』のなかで「ライム病は免疫ができないので、再感染が可能です」などという文を平気で書いてお金をもらっている翻訳者がいることを指摘した。そこには人間の立場というものが抹消されている。「こうすれば死ねるよ」と「そんなことをすれば死ぬよ」は、外国人にとっては同じように映っても、日本語の母語話者にとってはまったくちがうメッセージを伝えるものである。
人間の立場からすれば「再び感染するおそれがあります」、「再感染のおそれがあります」か、せめて「再感染の可能性があります」でないといけない。
こういう感覚のズレた文を探そうと思ったら、むかしはずっしりと重い医学書のページを繰るしかなかったが、今ではインターネットのページに不法投棄されたものがいくらでも見つかる。
今日いちばん最初に目についたのが「骨壊死は、高用量ステロイドの結果として恐れられている」だ。「恐れられている」とはまたたいそうなこと。大蛇や天の祟りでもあるまいし、いったいだれがどういう状況でそのような心情を抱くのか。英語を訳したものか、ふだん目にしている英語が頭にあってこういう文になったのかはわからないが、書いた人の意図をいろいろ想像するに、本当なら「高用量ステロイド治療には骨壊死のリスクがある」、「ステロイドを高用量で使用すると、骨壊死を来たすおそれがある」「高用量ステロイド治療では、骨壊死の発現が危惧される」(本当に「恐れる」という意味を出したいのであれば、この文がいちばん近いことになる)ほどの文に落ち着くはずのものである。「骨壊死は、高用量ステロイドの副作用のなかで最も××なものである」のような文でないかぎり、「骨壊死は」で始まる文はありえない。その意味でも、この文は人の生理をズタズタにする文である。
「こうすれば死ねるよ」と「そんなことをすれば死ぬよ」との差、「再感染が可能です」と「再感染の可能性があります」との差、「骨壊死は、高用量ステロイドの結果として恐れられている」と「高用量ステロイド治療では、骨壊死の発現が危惧される」との差が意識にのぼることがなく、どれも同じようなものとしてドロドロに溶けていくのであれば、もはや人は母語など必要としない。片言の英語で十分事足りる。そのために、小学校から英語を教えるというのであれば、一応筋だけは通っている。
違和感を覚えても、目上の者が使っているものを無下に否定するわけにもいかない。上にいる者に言語感覚が乏しく、傲慢で独りよがりで、支配欲が強い組織ほど、下にいる者の意識もドロドロにされていく。
日本中至るところに、こうして意識をドロドロにしてしまう環境がある。
そういう環境で4年間も鍛えられた者が教師になれば、ふと集中力が切れた瞬間に「死んでしまうよ」と「殺すことができる」の差が意識から消えてしまったとしても不思議ではない。さいわい、ドロドロになった意識でも、人権にかかわることだけはみな敏感になるようになっている。この教師の発言が赤ちゃんの命に直接かかわることであったから、問題になっただけのことで、「再感染が可能です」などと言ったとしても、聞き流されていたにちがいない。
処分するのであれば、このようなかたちで意識がドロドロにされている現状を放置した教育委員会、文部科学省の関係者も同時に処分するのでなければ意味がない。
さらには、この教師のドロドロになった意識を徹底的に解明し、その意識がどこでだれによって操作されたものであるかを明らかにする必要がある。きっと、大学時代にとんでもない教授が上にいたにちがいない。
物事を単に「失言した」という「点」で見るのではなく、そういう失言を許してしまう潜在的なメカニズムを「線」として究明するのでなければ、問題は何も解決しない。このような教師の何気ない一言一言に、生徒たちの意識もやがてドロドロにされてしまう。そのなかのだれかが教師になったとき、想像もつかないような失言をしてしまうことは想像にかたくない。
「小学校から英語」などと、国際感覚に欠けた呑気なことを言っている場合ではない。
170度で揚げればカラッと揚がる。
理屈はそうでも、常にその条件が作り出せるとはかぎらない。厨房にお金をかけることができる飲食店ならともかく、それぞれの家庭の事情があるなかで、この条件を満たせるようにするのも、技術の範疇に属するものである。
ぼくは、スペイン料理のトルティーリャを自分の台所の条件で、本場に負けないものに仕上げる技術を開発した。もちろん、これは「企業秘密」なので、教えるわけにはいかない。トルティーリャばかりではない。パエーリャもアリーニョも、日本の条件でできるかぎりのことは試みた。もちろん、逆もやってみた。スペインにいるときも、現地で手に入る材料でおでんを作って出したら、日本人旅行者が涙を流して喜んだ。ちらし寿司も、茶碗蒸しも作った。
レシピなんてものは理論にすぎないもので、条件が変われば、それなりに応用がきかなければならない。それが技術というものだ。スペインで日本料理に挑戦したことが、日本でスペイン料理を作るのに生きている。
翻訳なんて明日をも知れない仕事をしていられるのも、いざとなれば、スペイン料理店に鞍替えすれば生きていけるからだ。
その自信作、トルティーリャ・デ・パタータスは、仮に理屈を教えたとしても、たぶん同じものを作れる者はいないだろう。
翻訳もそれと同じことと言ってしまえば、実も蓋もないが、そういうことがあることもあながち否定できない。
理論はよくわかるんですが、実際にやってみると、どうもうまく応用できないんですと言う人がいる。そうかと思えば、どうしてもぎこちない文が残ってしまうと嘆く人がいる。
どちらも本来、理論とは関係のないことである。うまく応用できるかどうかは、それぞれが自身の規格に合わせて調整しなければならない問題である。いくら「塩少々」、「塩ひとつまみ」ということがわかっても、指の腹が異常に大きい人がいれば、当然料理の味はちがったものになる。
外国の珍しい料理が食べたくて、レシピから自分で作る人がいる。本人は本物を食べたことがない。それでも、作れてしまうのが不思議でならない。まず味わう。いろんなものを味わってみてはじめて、味わう姿勢ができあがる。味わう姿勢ができていないのに、理屈だけで料理を作っても、よしあしを判断できるわけがない。
翻訳でもそうで、外国語から日本語への翻訳を目指すのであれば、まず日本語を読まなければならない。万一、やったことのない分野の仕事を請けてしまったら、受注した分量の100倍、その分野の日本語を読むことから始めるしかない。英訳でも同じこと。10枚の仕事が入ったら、その分野の英語を1000枚読んだことのある人でなければ、本当の意味で翻訳することはできない。
「うまく応用できない」のも、「ぎこちない文が残ってしまう」のも当然である。自分で文を書いたことがないのに、原文が与えられただけでこなれた文が書ける道理がない。そこで「理論はわかるんですが」と、取りようによっては理論に不備があるかのように訴えてこられても困る。それとも、未だにどこかで理論にすがりつきたいところがあるのだろうか。
これからは、レシピも料理教室もそこそこに、食べ歩き会に力を入れるのがいいかもしれない。
長距離のレース中につまずくと「しまった」と思う人がいるが、ぼくは「しめた」と思う。つまずけば、たいていは前のめりになるから、その動きを前進方向に転じるようにもっていけばよい。
道を歩いていても、ぼくはよくつまずくので、いつも笑われているが、何食わぬ顔でバランスを取り戻したときには、他人より1メートル前を歩いている。つまずくことは前進するのに有利なことはあっても、不利なことは何もない。
語学の勉強でも同じこと。せっかく覚えた単語を忘れてしまったら、うれしくて仕方がない。これでまた、他人より一歩先んじたと、ひそかにほくそえむ。
何たって、忘れることは進歩なのだ。人間の記憶はほぼ5層構造になっていて、覚えたことはまずいちばん浅い層に記憶として保存される。そのままで深い層まで降りていくことはまずありえず、浅い層にとどまっている間は、いつどんな拍子に記憶が消えてしまわないともかぎらない。できるだけ早く下の層にまでもっていかなければならないのだが、そのためにはいったん忘れなければならない。
覚えては忘れ、忘れてはまた覚え直す。この過程を繰り返すことによって、人間の記憶はいちばん深い層にまで運ばれるようになる。そこまでいけば、もう絶対に忘れることはない。もちろん、加齢や病気によるものはこのかぎりではない。
世の中には覚えるのが速い人と遅い人がいる。一見、覚えるのが早い人の方が有利なように思えるが、いくら覚えるのが速くても忘れるのが遅ければ、いちばん深い層にまでなかなか行き着くことができない。覚えが悪い人でも、忘れるのが速ければ、そこで追いつくことができる。
通算12年間、スペイン語を教えてきたが、「私、頭悪いんで、単語覚えてもすぐ忘れるんです」と言う生徒が必ずいる。「アホか」の一言に尽きる。頭が悪いと思ったら、グダグダ言わずに、その悪さを前進方向に生かせばよい。それとも、本当は覚えたい気持ちなんかないんじゃないか。せっかく「すぐ忘れる」能力があるのだから、その能力を活用しない手はない。単語ひとつ1秒で覚える人がいても、忘れるのに1年かかれば、いちばん深い層に行き着くまでに4年と5秒かかる。それがどうだ。仮に覚えるのに1ヵ月かかっても1日で忘れることができれば、何と5ヵ月と4日しかかからない。頭のよしあしなんて、結局は使いようなのだ。
忘れることは、まさに「覚え切る」ためにある。
忘却とは、覚え切ることなり。
ところで、翻訳を教えるようになって、どうも学校英語の影響でまちがったまま覚えていて、いくら忘れるように言っても、忘れてくれない人がいるので困っている。
こちらも、これでもか、これでもかというくらい、「〜は絶対に〜と訳さないでください」と赤で大きな字で書くのだが、いっこうに直らない。
もしかしたら、受験勉強で苦闘したときに、いちばん深い層に記憶が保存されてしまったのかもしれない。だとすれば、一生その記憶に呪縛されて生きていかなければならない。それでも、本当にいい翻訳をしたいと思ったら、忘れるしかない。
まさに「習うより、忘れろ」である。
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日本人が英語を話せないのはお前が悪いからだとして逮捕され、取調べを受けていた学校英語がどうやら不起訴になりそうな模様である。
ひと昔前は、会話中心に変えなければという論調ばかりが強くて、文法中心、読解中心の教授法がまさに崖っぷちまで追い込まれていた。
ぼくも高校を卒業したときにはそう思っていた。ただ、ぼくの場合は英語にはさっさと見切りをつけて、自分の納得のいく方法でスペイン語をモノにできるかどうか試してみた。その過程で鳥飼久美子さんらの本を読み、単にペラペラ話せるようになればいいという考えがいかに愚かしいことかを思い知らされた。スペイン史を専門にしていたこともあって、かなりの本を読んだ。話せるようになったのも、単にテープを聴いて復唱したからだけではない。やはり、読書量の裏づけが大きくモノを言った。
その後、ECCのスペイン語講師になったときも、同僚の英語講師の話を聞いて、自分の考えがまちがっていなかったという思いをますます強くした。その人の話によれば、当時いっしょにアメリカに留学していた日本人たちがみな、寮に帰ってから1日1冊ペーパーバックを読むことを目標にし、競い合うようにして読んでいたという。アメリカに行って学校にも行っているのだから、そのままの流れに身を委ねていれば、英語など自然にできるようになると思われがちであるが、本当にできるようになったのは、アメリカに行ってなお、陰でそういう努力をしていた人たちなのである。
同時通訳者や、外国語を使って体を張って商取引をしてきた人たちの本には、必ずと言っていいほど「会話が上手になるには本をたくさん読むことが必要です」と書いてある。
最初から読むだけで発音をまったく教えないのは困るが、ある程度音韻体系が身についてしまえば、必ずしも耳から学ぶ必要はない。本を読む方が語彙を増やすには明らかにすぐれている。
文法なんてわかってもどうにもならないと言うけれども、せめて「文法がわかっただけでは」と言い換えるべきである。スペインでも、フランスでもイタリアでも、単に話せればいいというのではなく、文法の誤りのないことがいかに高く評価されるかを目の当たりにした。その意味でも文法を徹底的に教え込む教授法はけっしてまちがってはいない。
高校を卒業してから数年後には、「日本人は読むのは得意だけど、話すのは苦手」という認識が誤っていると思うようになった。
話すのもあまり上手じゃないけれど、読むのはそれ以下。翻訳はお話にならない。
いずれにしても、学校英語を相手にして、「日本人がなかなか英語を話せるようになれない」のは、「音声言語として教えていないから」、「文法、読解中心だから」という理由を持ち出してきても、とても公判を維持できそうにない。このままではもちろん、不起訴になることはまちがいない。
それはいい。ところが、どうも最近の風向きがおかしい。せっかく別件逮捕しておきながら、このままでは本件まで不起訴になってしまうおそれがある。
たとえば、不起訴に大きく傾いた論拠のひとつに、言語的距離の問題がある。英語の母語話者がフランス語を習得するのに要する時間を1とすると、ロシア語3〜4、中国語6〜7、日本語、韓国語10という数字が出ている。これを日本語の方からみると、英語が日本語からみてかなり遠い距離にある言語であることがわかる。英語からみて日本語が10なら、日本語からみた英語も10になるはずだが、この数字だけでは、日本語からみてロシア語が7前後かどうかはわからない。もしかすると13になる可能性もある。
それはともかく、この距離の問題を抜きにして、英語が話せないのを教授法のせいにするのはおかしいという論拠である。
学校英語を釈放する前にちょっと待て。距離の問題は、果たしてどうにもならないことなのか。それに、言語間距離があることがわかっているのであれば、なぜそれを考慮に入れた教授法を採用しないのか。
情報量理論が登場した意義は、こんなところにもありそうだ。